『ドストエフスキー全集6 罪と罰』(小沼文彦 訳/筑摩書房)

 笑うなよ。
 笑うなってば。


 初期の佐藤友哉が本当に本来の意味で凄かったのは、普通だったら絶対に他人が共感できないようなごく個人的なわだかまりをちゃんと起承転結のあるエンターテイメントに乗せて昇華できていたからで、ちょっと前の佐藤友哉が駄目っぽかったけどそれはそれで面白かったのは、周りが見えてない本気の悪意がだだ洩れだったから。そして今の佐藤友哉がまた妙に凄くなっているのは、遂にサリンジャーの丸パクリという偉業を達成してしまったからではないでしょうか。冗談を真に受けないで下さい。早く鏡家サーガ長編を書いてほしいです。


 という全く関係ない事柄について考えてしまうくらいには、ユヤタンが書いたみたいな内容でした。おかげで読みやすいったらなかったです。特に目に付いた要素を挙げると、


・「俺はナポレオンだぜー、他の連中はみんなどうしようもない馬鹿だぜー、俺が殺したあのババアなんて所詮シラミに過ぎなかったんだぜー」と粋がってみても、自分自身それを信じきれていないところがあるヘタレ主人公。
・主人公、妹の婚約者に全力で突っかかって婚約破棄させるぐらいのとんでもないシスコン。しかし妹の方もまんざらではない。というか明らかに兄LOVE。
・お人良しの売春婦に同情しつつも苛立って、完全に余計なお世話としか思えない理不尽な説教をする主人公。しかし売春婦の方もまんざらではない。(そういえば『地下室の手記』でも売春婦に説教するエピソードがあったような。好きなのか、売春婦。あるいは説教が)
・最終的に、唐突な「愛」。


 最後の点に関しては、エピローグのこの箇所を引用せずにはいられません。


 ≪彼らを復活させたのは愛であった。つまりお互いのハートがそれぞれのハートに対し限りない生命の源泉であったわけである。≫


 この、一歩間違えばアホらしくなる突き抜け方はむしろ舞城か。
 別に佐藤友哉が『罪と罰』を読んでても全然おかしくはないのですが、それで直接影響を受けたというよりは、こういう「自意識過剰のあまり暴走してしまう若者」という存在の普遍性によって生じた類似と考えたいです。笠井潔がそんなことを以前どっかで言ってたような気がします。笠井潔の発言は、奈須きのこ武内崇に関すること以外は全て正しいです。